渋沢栄一が愛した妻とのエピソードや手紙の内容とは。妾や庶子など何人いた?

2021年吉沢亮主演の大河ドラマ 『青天を衝け(せいてんをつけ)』での

主人公・渋沢栄一

『論語』をベースとした道徳を持ち、「日本の資本主義の父」と呼ばれ、幕末から昭和初期に実業家として活躍した偉人。

清廉潔白なイメージを持ちますが、『明眸皓歯(めいぼうこうし)に関することを除いては、俯仰天地(ふぎょうてんち)に恥じることはない』と語っているように、

美女には目がなかったようですね~

今回は、渋沢栄一さんの実業家の面ではなく、一人の男としての人生を見てみたいと思います。

結婚して愛した妻や子供、妾や庶子、現在の子孫は誰なのか、まとめてみました。ど~ぞ♪

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渋沢栄一の女性論

『明眸皓歯(めいぼうこうし)に関することを除いては、俯仰天地(ふぎょうてんち)に恥じることはない』

美女(美しく澄んだ目もとと、白く美しい歯並びのさま)に関することを除いては、心にやましいところがないので、恥じることは何一つないという意味、美女には勝てない

プロフィール

旧字体:澁澤 榮一
生年月日1840.3.16-1931.11.11
出身埼玉県深谷市
両親父・渋沢市郎右衛門元助(1810-1871)
母・エイ

最初の妻・尾高千代

1858年12月、渋沢栄一19歳、尾高千代14歳と結婚

千代は、気丈で内助の功がある性格だったようです

名を栄一郎と改める

千代との子供は

1862年長男・渋沢市太郎(6か月で死去)
1863年-1932(69歳)長女・渋沢歌子(配偶者:穂積陳重)
1870年-1925(55歳)次女・渋沢琴子(配偶者:阪谷芳郎)
1872年-1942(70歳)次男→長男・渋沢篤二(配偶者:伯爵・橋本実梁の娘 敦子)
三女・渋沢糸子(早世)
1847-1868養子・尾高平九朗(千代の弟)

千代との結婚生活

千代というのは、渋沢栄一が小さい頃近所に住んでいて『論語』『四書五経や「日本外史」』などを教えてくれた従妹の尾高惇忠(あつただ)の妹

尾高惇忠、尾高千代の母はやえ。やえは、渋沢栄一の父である渋沢元助の姉である。

いわゆる、従妹同士の結婚。

渋沢栄一から考えると伯母さんの子供と結婚したことになる。

1863年23歳頃から、尊王攘夷思想に目覚め、すぐに別居生活。

結婚生活わずか4年。

千代は平穏な新婚生活を送ることはできなかったとされています。

渋沢栄一は京都に逃亡。

その間、千代に22通の手紙を送っているようです。

しかし、千代はデキはよかったが字が下手だったようで、なかなか返事を書かなかったようですね。

渋沢が、「たまには返事をよこさないと、浮気をするぞ」という手紙を書いたというのも本当でしょうね。

24歳、京都に逃げ込んだ時、ある女性をめぐって新選組ともめたことがあるそうです。

新選組隊士が仲間を連れて京都の渋沢の家に乗り込んできたとき、斬り合いを覚悟したが、話し合いで円満解決した。

1868年29歳、帰国。

1882年7月14日、当時流行していたコレラを患い、飛鳥山邸で42歳で亡くなりました。

4歳違いなので、渋沢は46歳ですね。

ヨーロッパでも女遊びを??

渋沢はパリに着くと、すぐに断髪し、洋服を買う。

柔軟な思考としてとらえられる説もあれば、女性にモテるためだという説もある。

ヨーロッパでお気に入りの街娼に

「これもなにかの縁なので、美人よ、私の元に来てください。そして両国の関係も親密なものにしましょう。ただ私は現在公務を控えているので、必ず後から日本に来てください」

「嘘もある程度までは許せますが、大嘘は人を怒らせるどころか笑ってしまいます。私が本当に海を渡ってきたら、貴男も困るでしょうから私はこの話には乗れません」

と罵倒したというエピソードがありますね。

『渋沢栄一美人に凹まされる』

実は愛妻家?

1863年から5年間、ヨーロッパに滞在した渋沢栄一。

渋沢氏は千代を非常に深く愛していたようで、千代の心変わりや、浮気や離婚を恐れていたような手紙が見つかっています。

京都にいるときも手紙を送っていたし、千代さんの事は愛していたのでしょうね。

妾はいて、美しい人は好きだけど(笑

「 相わかれ候よりは一度も婦人くるい等も致さず全くくにの事のみしんぱいいたしおり申し候あいだ… 」( 元治1.10.5 )

「 此方には更にわすれ申し候日これなく候あいだ、おまえ様にも御みさお御つのりなされ候ようたのみあげ申し候… 」( 慶応3.1.9 )

「 かねてこなた心は承知の通りにて、たとえ十年が二十年とても相かわりなき赤心、ただただ憐れむべきはそなた事に候えども… 」( 慶応3.5.15 )

「 その節まではよくよく貞操御守りなされたく頼み入り候 」( 慶応4.3.30 )

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字が上手ではない千代さんは、返事を書いたのでしょうか。

ただ、エピソードのひとつに、同封されてきた写真について、ちょんまげを切って、蝶ネクタイをした渋沢栄一を見て、千代は相当驚いたようですね。

それもそのはず、武士が象徴である「まげ」を切り、洋装に身を包むのは、当時の常識では考えられないこと。

この時は、さすがの千代も返事をかいたようです。

『あまりにも見る目も辛いお姿です。どうか元のお姿に戻ってください。なぜあなた一人がそういう格好なのですか?心が痛みます。』

1868年29歳、帰国。

二人目の妻・伊藤兼子

千代が亡くなったの翌年1883年、川越の豪商だった伊藤八兵衛の次女・伊藤兼子と再婚

結婚のエピソード

実は再婚同士

兼子は、18歳の時に結婚したが為替投機で失敗し実家が没落。この時に離婚。

稼ぐために、「芸子になりたい、妾だけは、どうしても嫌」といい続け、「渋沢栄一氏の夫人がこれらで亡くなって困っているから、助けてくれないか」という話が持ち上がり引き受けた。

兼子が渋沢栄一氏の邸宅に行ってみると、その本宅は以前の兼子の家だった。

いいのか悪いのか、これがご縁というものでしょうか・・・・

兼子との子供は

1886-1946(60)次男・渋沢武之助(配偶者:福原美枝)
1888-1942(54)三男・渋沢正雄(配偶者:池田鄰子)
1890-三女・渋沢愛子(配偶者:明石照男)
1893-1984(91)四男・渋沢秀雄(離婚→他女性と再婚)

1928年、渋沢栄一の米寿の賀(88歳)のお祝いの時の写真ですね。

ここに、千代さんとのお子さんである長女の歌子さんや長男の篤二さんはいらっしゃらないのでしょうか。

 栄一(前列右より3人目)の米寿の賀。 栄一夫人(同2人目)のほか、 三男の正雄(後列右より3人目)、 四男の秀雄(同7人目)

母、兼子は、四男の秀雄に云ったという。

「父様も論語とは旨いものをみつけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね!」

キリスト教は姦淫を禁じているが、論語には性に関する戒めはほとんど書かれていない。

妾や庶子は?

この時代は、妾を持つということは、特に問題はなかったようです。

でも一夫多妻ではないですよ~~(笑

男性として経済的に豊かで、世間の信用が持てるというステイタス。

あくまでも正妻は兼子だけ、と子供4人、前妻・千代との子供3人に養子1人。

その子供以外の妾とその子供の面倒をまるまるみるということは、かなり裕福でないとできないようね~

渋沢栄一には妾が3人(大内くに)いて、正式に庶子と認められたのは4人だけ

1871年以降ふみ(配偶者:尾高次郎 父は尾高惇忠)
照子(配偶者:大川平三郎 母や千代の姉)
1892(52歳の時)渋沢辰雄→星野辰雄
1908-1985(68歳の時)長谷川重三郎

1871年31歳、出張を命じられた大阪で大内くにと出会い、現地妻となる

大阪での任期が終わると、くにも東京に連れて帰り、神保町にあった自宅に妻と妾であるくにを一緒に住まわせた。

この大内くにと渋沢栄一との子供が、ふみと照子。

渋沢栄一が52歳の時の子供、辰雄は、星野錫の養子となり、星野辰雄になる

そして、妾さんとの最後の子供が渋沢栄一が68歳のときの長谷川重三郎

13番目の子どもだから「じゅう3郎」となづけられたようです。

あれ?ひとり足りない(笑

渋沢辰雄さんと長谷川重三郎さんの母親が明らかになっていませんが、以下のような人も妾として挙がってきたので、関係しているのかしら。

深川福住町四番地の自宅には大阪より連れてきた田中久尾(28)
日本橋浜町一丁目三番地の別宅には吉原仲ノ町林家小亀こと鈴木カメ(24)

明治6年3月に撮られた写真には、妻と妾が一緒に映っていたものもあり、妻と要が同居することも渋沢栄一にとっては普通の事だったのでしょう。

渋沢家家訓には、こんな一節がある。

「子弟には卑猥なる文書を読ましめ、卑猥なる事物に接せしむべからず。また芸妓芸人の類に近接せしむべからず」

これは・・・自由にやってきた渋沢栄一にいわれるとは、という感じですね。(笑

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